頼純の塩谷郡支配は、宗綱の助言の下に着実に進んでいた。
頼純が塩谷の地に下ってきた時、そこには、すでに山本一族という有力な支配者がいた。寛治3年(1089年)に山本家隆が宇都野の地に鳩が森城|(別名宇都野城)を築き、塩谷郡の支配を固めていた。しかし、この山本家隆は、頼純の祖父義家の家臣であり、義家によってこの地を与えられていたため、孫である頼純がやってくると、進んで恭順の意を示し、頼純の重臣となっていた。
それから頼純は、自らの有力家臣たちを塩谷郡の要所に配置し、その統治基盤を盤石とした。
関谷の地には、関谷左内重兼とその子、太郎兼光(又は兼通)を配置して田野城を築かせた。
長井の地には、長井次郎安藤太を配置して長井館(下長井館)を築かせた。
平野の地には、平野三郎兼虎を配置して平野館を築かせた。
岡の地には、岡四郎兼春を配置して岡城を築かせた。
泉の地には、和泉五郎兼重を配置して泉城を築かせた。
乙畑の地には、乙畑六郎兼房を配置して乙畑城を築かせた。
小入の地には、小入七郎重春を配置して小入城を築かせた。
山田の地には、山田八郎兼利を配置して山田城を築かせた。
安沢の地には、安沢九郎兼盛を配置して安沢館を築かせた。
矢板の地には、矢板十郎盛兼を配置して矢板城を築かせた。
いずれも青年や少年ともいえる若い武将たちであったが、頼純が信頼する文や武に長けた武将たちで、将来性を考えての配置であった。これらの武将は、のちに堀江十勇士と呼ばれる事になる。そして、これら10名の家臣たちを中心に、宇都宮氏の配下である紀清両党に匹敵する最強の軍団を整備した。
特に頼純は、年も近かった事もあって、関谷兼光には強い信頼をおき、常に側に置いていた。年で言えば、兼光の方が3歳年下で、頼純は、実の弟のように兼光をかわいがっていた。そして、暇さえあれば、頼純は兼光を連れて狩りに出掛けていた。
その日は天気がよく、頼純は兼光を連れて堀江山に登り、山の上から北の方を眺めた。
頼純「今日は、狩り日和じゃの。」
兼光「左様で。」
左様で…と言った兼光の口元が軽くゆるんだ。頼純のそれは、いつもの合図だった。
頼純「では、那須を狩りに行くかの。」
兼光「はっ。」
それは、内緒で2人だけで狩りに行くという合図の隠語だった。他の家来たちと狩りに行くと、行き先が制限される事が多かった。他国の国境などで狩りをすると、他国の者たちといさかいが起こることもあるので、そうした身の危険があるような場所は避けられてしまうのだ。
だが、頼純にはそれがつまらなかった。もっといろんな場所で狩りがしてみたい。特に最近のお気に入りは、那須との国境あたりの那須野で狩りをする事だった。それは、兼光の居城である田野城に近く自由がきくということもあったが、那須の地にはある思い入れがあったのだ。「那須に…」ではなく、「那須を狩りに…」と言ったところに、その思いは込められていた。
頼純は、兼光だけを連れて堀江山城を出て、北に馬を走らせた。目指すは那須野の地。狩りに行くとは言ったが、狩りの支度はしていなかった。その方が家来たちの目を騙しやすいということがあったが、2人の今日の目的は、狩りではなく、那須の地を密かに見に行くことであった。
頼純「兼光!! やはり最初は那須じゃのう。」
兼光「さようで。ここを越えていけば奥州です。」
頼純「うむ。」
頼純は、今は胸に秘めたる野望を兼光だけに語っていた。
奥州制覇。それこそが頼純の望みであった。
奥州は、源氏の因縁の地である。因縁は、頼純の河内源氏の祖である源頼信が鎮守府将軍に任命された時から始まる。
鎮守府将軍とは、奥州を支配する朝廷に認められた最高権威で、これに任じられる事は、奥州の支配者を意味していたが、その実態は「支配」などと言う言葉とはかけ離れたものだった。権威としての鎮守府将軍の地位はあっても、実際に奥州を支配していたのは、地元の有力豪族たちであり、特に安倍氏の台頭が強く、支配と言うよりは、朝廷と地元の豪族たちとの間を取り持ち、良好な関係を保つための仲介役に過ぎなかった。ちなみに、この安倍氏の末裔が、平成の世に総理大臣となった安倍晋三氏である。
これに不満を抱いた頼信の子である頼義、つまり頼純の曾祖父は、鎮守府将軍になって奥州の地に赴くと、安倍氏討伐の兵を起こす。安倍氏を討伐して奥州を源氏の領地とし、奥州に源氏の一大王国を作るのが頼義の夢であった。いわゆる前九年の役である。単独ではこれに失敗するが、出羽(現在の秋田県と山形県)の清原氏の協力を得て、安倍氏討伐に成功したが、これにより奥州の実権を握ったのは、源氏ではなく、これに協力した清原氏であった。頼義以降の鎮守府将軍には、3代も続けて清原氏が任命されたのだった。
その清原氏を討つべく兵を起こしたのが、頼義の子にして頼純の祖父である義家であった。義家は、清原清衡と協力して、清原氏を討ち、いったん奥州を平定した。後三年の役である。
この清衡は、元々は藤原氏の出であったが、家が滅びて、母が清原氏に嫁いだために連れ子として清原氏になっていたものである。だが、清原の血を引いていない清衡は、清原氏の中では不遇な扱いを受けて、清原討伐に加わったのだった。これが成功すると、清衡は藤原氏を名乗った。その後、清衡は、義家を裏切って奥州から追い出し、自らが奥州の支配者となった。いわゆる奥州藤原氏の始まりである。
その後、奥州は藤原氏によって盤石に支配され、源氏は奥州に立ち入れなかった。
頼純の夢とは、その無念のうちに奥州を離れた祖父の義家に代わって奥州に入り、祖父を裏切った藤原氏を討ち、奥州を源氏王国とする事だった。その第一歩が、那須の支配であった。那須を制圧して北下野を制圧し、それを足掛かりとして奥州に攻め入る事を考えていたのである。
頼純「俺は、祖父のものであったはずの奥州を必ず取り戻す。」
那須を狩る…その言葉には、そんな意味が込められていた。
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